無有好醜の願

先月見て来た展覧会のお話です。
大谷大学博物館で開催中のこちらを見て来ました。
2019年度特別展 柳宗悦・棟方志功と真宗-土徳の大地と民藝の美-
その日は夜に京都市内でのコンサートに家族と行く予定があり、昼間に展覧会を梯子しようと調べて、この展覧会に行き当たりました。
一緒に行動した家族は民芸にずっと傾倒していて、民芸協会会員歴ウン十年。
私もその影響で民芸を嫌いではなく、棟方志功の作品はかなり好きです。
ですが、柳宗悦の思想までよく判っているかというと、そこまでではない。
そんな私にぴったりな展覧会でした。

ブログのタイトルにした「無有好醜の願」は柳の「美の法門」の根幹となっている思想という事のようです。
会場でこの言葉と解説を読んで、深いところから共感を覚えて、もっと調べようと思っていたのですが、しばらく落ち着ず、やっとネットで調べてみたところ、三重県立美術館の図録についてのページがヒットしました。
柳宗悦の「美の思想」について

7、美の法門 から引用します。

時間をこえた真理の世界では、すでに美醜二のない世界に迎えらる誓約ができている。美醜は、人間の分別によって生じる迷いである。真に美しいもの、無上に美しいものとは、美醜二元から解放されたもので、それ故自由の美しさである。本来自由たることが美しいのである。美醜二元をこえるとは、本来美醜のない性質が備わっているのだから、美しく成ろうとあせるより、本来の性(さが)に居れば、何ものも醜さに落ちないはずだという。しかし、本来の性に在るということは、心弱い普通の人間にはなかなか困難である。そうした人々を救うのが仏であるように、美の世界にも、他力が用意されているという。

浄土では美醜の二元対立は存在し得ず、究竟の「不二美」があるのみである。「不二美」は、「醜の反面をもたない美そのもの」「美醜相即」「不美不醜」の性にいたらざるを得ない。この「不二美」の世界では、だれが何をつくってもそのままで美しい、本然の世界である。美醜は現世から眺めた分別の妄想であり、そこから脱する道は、何かに執着することをやめ、「無難」「無事」の境地にいたることである。小我や分別を棄てて、本然の性に帰ることで、他力の摂理を信じ切って大いなる力に身を委ねることを説く。「衆有好醜の願」は、「どんな人に対しても、どんな作に対しても、無謬の道があること」を示しているという。

いま流行りの”スピリチュアル”で語られている事は、既にここにありました。
作品に出逢う事は思想に出逢う事でもあります。

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