奇蹟の画家

こころを動かされる作品に出会うたびに思うことは、「なぜこの作品にはこころが動くのか」「こころを動かす要素は何なのか」を知りたい、ということ。

石井一男という人の作品とそのエピソードについては新聞でも読み、この人の作品集を以前の仕事で手に取りもしたのだが、写真からはその作品が人のこころを打つ「魔力」が何なのかはわからなかった。

作品というものは現物に逢わなければならない、が真実なのだろう。
一度その作品に逢って洗礼を受けてしまえば、写真でも代用可なのかもしれない。(作品を購入できなくて写真を大切にしていたというエピソードもある)

死に臨んでいる人がその絵にすがりつくようにして病と闘い、心穏やかに彼岸へ旅立っていくというエピソードの数々。話だけを聞くとつい「眉唾」と疑ってしまうが、後藤氏の文章を読むとそういうこともあるのかもしれない、とも思えてくる。
作品を見出し世に出した画商と作品を購入して大切にしている人々と作家との交流は、そこに”魂”と”愛”が介在していることを感じさせてくれて、人間というものを信じることが出来るこころもちになれる。

そして、ちょっとした恐れを伴って心に浮かんでくる思いがある。自分がこの作品の写真から何も感じ取れないのは、自分はそれにふさわしくない存在だからなのかもしれない、と。この作品から何事も受け取れない自分は、こころが捻じ曲がり乾ききった、天国に行く資格のない存在なのかもしれないと。

本物の作品に逢いたいとは思うのだが、それで「何も感じなかったら」どうしよう、と奥深い恐怖を感じる。

石井氏の生活を「清貧」とメディアも紹介しているが、私には「普通の生活」に思えた。
作品が売れるようになり、マンションでも一戸建てでも引っ越せそうな状況になっても長屋に住み続けるのは、そこが作品を生み出す場となっていて、暮らしそのものが作品の一部となっているからなのだろう。作品を生み出すことが生きることと一致しているのだからあたりまえのことだ。

年をとって階段を上るのが大変になったときには同じような平屋の家に住むのもいいかもしれない、という考え方も、便利なマンションや豪華な一戸建てという空間では自分が快適でいられなくなるということをよく判っておられるからなのだろう。
「清貧」とメディアから持ち上げられるのも(真実は”見下げて”いるのかもしれないけど)ご自身にとっては居心地の悪いことなのではなかろうか。

前述のとおり、作品の写真からは私は何も感じることが出来なかったけれど、作品にまつわるエピソードの数々を読み、その作品が人のこころを動かすものは何なのかをより知りたいし、出来るならこころを動かされたいと強く思う。
そのためには、私の内側にある恐怖を克服して実物の作品に逢わなければならない。
作品をに逢った後の自分がどうなるか、恐ろしいような楽しみなような複雑な思いだ。