今見ヨ、イツ見ルモ

「今見ヨ、イツ見ルモ」

私は「どうしたら美しいものが見れるようになれるか」
とよく聞かれる。
別に秘密はない。
初めて「今見る」想いで見ることである。
うぶな心で受け取ることである。
これでものは鮮やかに眼の鏡に映る。
だから何時見るとも、今見る想いで見るならば、
何ものも姿をかくしはしない。
たとえ昨日見た品でも今日見なければならない。
眼と心を何時も新しく働かねば、
美しさはその真実の姿を現してはくれぬ。
何も美しさのことのみでない。
一切の真なるものは、今見る時にのみ、
残りなく、その姿を現してくれる。
それは即今に見ることであり、
真に見ることは、その即今以外の出来事ではない
柳宗悦「こころうた 心偈」より


民芸運動の柳宗悦氏のことば。

美しいものを見つける方法としてばかりではなく

どんな事にも当てはまる方法だと思います。

今この瞬間に初めて見る、遭うのだという心構えで

どんなことにも当たってゆけば

ものごとの本質を見ることが出来て、無駄な誤解などはなくなり

自分もそのたびに新たなものでいられるのではないか

そう思います。

作品を見るときも音楽を聴く時も人に会うときも

前に同じものにあっているし、知っているし、

というつもりでフィルターをかけてしまっていると

折角その瞬間に出会えたかもしれない何かを

取りこぼして逃してしまう

そんなもったいない事にもなりかねないのです。

そして何度も出会っているもの

作品でも音楽でも人でも。何度も同じ出会いがあっても

そのたびにまっさらな自分で対すれば

そのたびに新鮮で、楽しくて、豊かな体験になるのです。

前に会った時とは自分も対象もおそらく何処か違っている筈。

全く変化しないものなんてこの世のどこにもないのですから。

一分前の自分と今の自分は同じ自分ではない。

ならば、そのたびに初めての出会いなわけです。

その出会いをコーディネートした何かが教えてくれる事を

自分で締め出して気づけないのはとても大きな損失。

そんなことにならないようにしたいもの。

「ああ、これ、知ってるし」

あるいは

「わたしこれには詳しいし」

はたまた

「またこれですか」

などというのは

とても危険な感覚だと、このごろは自戒を込めてそう思います。